−2019年08月31日作成開始−
−2019年09月04日ほぼ完成−
−2019年09月11日google検索可−
−2019年09月11日歌声合成ツール、音声編集ツール;ダウンロード−
−2019年09月17日「逍遙歌第一、第二」「芙蓉寮節」、「青い山脈」を作成。(未熟だ。)−
−2019年09月19日「掲示板」を設置−
−2019年09月24日「芙蓉寮節」(妥協品)、「青い山脈」、−
−2019年09月28日「逍遙歌第一」(妥協品)、−
−2019年10月11日「芙蓉寮ゲーム」を設置−
−2019年12月03日「1970年頃の新天街の地図」をみつける−
−2019年12月09日「応化フラ」(雑なでき)、−
−2020年01月21日「芙蓉寮節」(YouTubeに投稿)、−
−2020年**月**日作成完了。信玄公に習い「3年間隠す」ことにして、
2023年ころ公開予定
1.陸軍甲府歩兵第四十九連隊
神秘的な光景
[甲府歩兵第四十九連隊は明治42年4月に設置]
正門前の女子学生の服装から明治、大正のころの写真か?
正門からは附属の小中学校もなく、「芙蓉寮」の雄姿が
なつかしい山なみのふもとに荘厳に据えられている。
この雄姿は明治天皇も見に訪れている。
信玄公が眠る後方の山なみが敵機をよせつけず、
昭和二十年七月七日深夜の米軍による甲府空襲でも焼かれず、
私たちの入寮を待っていてくれた。
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2.逍遙歌
皎々(コウコウ)古都に月冴えて
逍遙歌は坪内逍遥が作った詩(うた)だと思っていました。
実際には昭和二十年に山梨工専・土木科を卒業した黒住薫潔氏の 作品であることを知りました。
この隠れた珠玉の名曲は
多くの寮生の心の中にしみ残っている。
下の画像をクリックすれば、岡山支部さんのなつかしの名曲が聞こえてきますが、
パソコンに「逍遙歌第一」をノスタルジックに歌わせてみました。
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嗚呼春は花の夢
この巨大な木造建築物と同じ構造の建物が、
そばにあり、戦後、満州からの引き上げ者が住んでいて、
その建物が、火が出て15分で全焼したと言われていて、
2階の部屋には、脱出用の縄ばしごがありました。
2階は天空の要塞基地のような高さで、
普通の人間であれば飛び降りることはできない高さであった。
この荘厳な木造建築物は、老朽化を理由に
1980年に解体されてしまったが、
法隆寺や正倉院と同じヒノキでできていたのであれば、
あと、百年や二百年はもったかもしれない?
「逍遙歌第二の一番のみ」(ビブラートつき)
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1974年2月2日
春繚乱の甲斐の野辺
渡り廊下を渡ると、
中浴場と大食堂がありました。
夜8時は残飯整理の時間でした。
食堂では深夜までコンパや総会をしてました。
コンパでは、逍遙歌の他に、「芙蓉寮節」が必ず歌われた。
食堂の炊事のおばさんは、終戦時、満州でソ連兵に
銃をつきつけられながらも、互角にわたりあったそうです。
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1972年3月18日
逍遥歌の歌詞
逍遥歌の合唱
3.コンパと自治寮
ラ・セーヌ
ある時はマージャン部屋。
そして、ある時はコンパの水たき。
学科ごとに歌があったが、私は、
「応化フラ」が好きでした。
在校生は山梨県出身者が多いが、
芙蓉寮は長野県勢が多く、コンパで
「信濃の国」がよく歌われました。
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居室
普通は清潔に整理整頓されている部屋が多かった。
一部屋に2〜3人で住んでいた。
1年に2回部屋替えがあったので、引越がたいへんでした。
暖房は、豆炭こたつのみだったので、よく風邪をひいた。
寮費は月に百円
電気水道光熱費の自己負担分はゼロ円、
食費は1日3食分が二百数十円で、
月額約七千円で生活できた。
富士急行のバイト2回で生活できた。
高度経済成長時代の1964年から、
佐藤政権のころから、
弱者救済の国家予算はどこかへと去りはじめた。
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遺跡
芙蓉寮は新寮ができた後、こわされてしまった。
現存する建物は、白菜の漬物を保存していた赤レンガの倉庫のみである。
冬が近づくと大きな樽に一年分の白菜を漬け込んだ。
食堂には一年中この白菜漬けがあった。
同じこの倉庫にあった食料を食べていた数千人の「悲運の」若者たちは、
レイテ島、セブ島で惨死している。
この赤レンガ倉庫は「戦争遺跡」として保存されるようだ。
芙蓉寮こそ遺跡として保存してほしかった。
岡山の卒業生・青木晃二さん(昭和43年電気卒)が、
「逍遥歌」の譜面をおこし録音をしてくれたことに、
感謝します。
[山梨大学教育人間科学部の旧糧秣(りょうまつ)庫赤レンガ倉庫(登録有形文化財)]
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4.芙蓉寮からの眺め
お金では買えない眺め
芙蓉寮の窓はアルミサッシの一枚ガラスではなく、
木製の木枠に複数枚の板ガラスを埋め込まれていました。
2階の南側の部屋の窓を開けると、
富士山や南アルプスがあらわれ、武田信玄にでもなった気分でした。
二度と戻らない日々です。
この眺めは、レイテ島で戦死された若者たちや
満州から引き上げてきた方たちも、見ている。
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5.チンチラカンチラ、下町行けば〜
ヤマコウのおねいちゃんが横目でにらむ
信玄公祭りは、4月の上旬に行われる甲府の武者行列。
バイトに、足軽のエキストラもあったようです。
地元の人たちとの交流では、
「だっちもねえこん、やっちょし」とか、
「くえし」
「そうずら」
を習得したことが、なつかしい。
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6.霊峰八ヶ岳
八ツはバイトと徒歩ラリー
八ヶ岳の中央線信濃境駅から甲府の芙蓉寮まで徒歩ラリーがありました。
数日、寝たきりとなりました。
徒歩ラリーは夜中で八ヶ岳でのバイトでは、山が近すぎて、
この写真のような霊峰であることに、
いっさら(立川べん;「まったく」)気づきませんでした。
ノーベル賞の大村さんや、サッカーの中田英寿氏は、
産まれた時から、この眺めを見ながら
土を耕し、ボールを蹴っていた。
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6.青い山脈
ちちもふくらみ、
寮生のバス旅行というものがあったと思う。
どこに行ったか、全く覚えてないが、
スキーか富士急ハイランドにでも行ったのか?
バスの中では、「青い山脈」がよく歌われ、
ランランラー、・・・、(に続き)
「ワカクアカルイ・・・」が
「チチモ、フクラミ・・・」と進化していた。
性獣たちの妄想は制御不能だった。
山梨放送と青い山脈
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7.新天街
TOILET、
寝ていると夢の中に芙蓉寮のトイレがよく出てくる。
別棟に木造建てのトイレがあり、サンダルでそこに行くと、
くみ取り式トイレは全室よごれていて、使うのをあきらめると
目が覚める。・・・実際には清潔なトイレだった。
2階から「窓ション」もよくしました。
1970年代半ばには、水洗トイレになり、新聞紙は使えなくなった。
洗濯機も全自動洗濯機が入り、畳替えで青たたみも入りはじめた。
かなり文化的な生活環境になった。
「新天街」の共同トイレの写真を見ると、
サンポールとパラゾールのにおいが、よみがえる。
私の「学生時代」は「ノートとインクのにおい」ではなく
「ジャンプとサンポールのにおい」だった。
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福だるま、
「福だるま」には何度か行った。
いくつか、はしごをした後、最後にここで「ギョウザ」を食べる。
あの丸メガネのおかみさんは2014年の時点では、もういなくなってるようだ。
この赤い看板に明かりがともることは、もうない。
「夕ぎり」には行った記憶もなく、場所も知らない。
「寮祭」のご寄付の名簿に載っていることから、
寮生と関係が深かったようだ。
夜中に、「夜警」をしている時に、「大富士寿司」から
寿司の出前を取るのが定番であった。
朝日どおりの「ひなた」は喫茶店。
「平均して玉の出るパチンコ店」で道をまがると「国立甲府病院」が見えてくる。
「のみち」は寮の北西部にあった中華料理店。
寮の裏にあった「松原食堂」は「マズッパラ」と呼ばれ、
もやしの野菜炒めライスを食べさせてもらった。
その近くに「たばこ屋」さんや、その向いに「よろず屋」があって、
袋の即席ラーメンをよく買って食べた。コーラの自販機もあった。
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8.ノーベル賞
大村智博士、
2015年の秋。
なんと山梨大学はノーベル賞受賞者の出身校になってしまった。
大村博士も私たちと同じ風景を見、
同じ空を見、同じようにホウトウを食べ、
甲州弁をしゃべり、外の世界へ思いをはせていた。
山梨大学からは、つまらないエリートは出ないが、本物の天才が出る。
逍遥歌を作った黒住氏もその一人だ。
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9.情報通信
ピンク電話、
1970年代、
百数十名の寮生と外部との通信手段はピンクの電話1台のみであった。
この1台のピンク電話で寿司の出前を注文したり、
田舎に仕送りの依頼をしたり、
異性との長電話に使う者もいて、大活躍であった。
21世紀まで芙蓉寮が存在していたら、この1台のピンク電話が
スマホにも負けずサイバー通信の中心となって活躍できるのだろうか?
↓の絵をクリックすると、クリックゲームが始まります。
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10.新天街の地図
新天街
1970年ころの新天街の地図を見つけました。
無断借用しています。
新入生の時に、
この「ロビン」か「ハワイ」で初めて洋酒?か
カクテルを飲みました。
すべて、上級生のおごりでありました。
上級生は金銭面でたいへんであったと思います。
上級生は、新入生にウオッカナントカとか、
やたら強い酒を飲ませてくれました。
この地図には違和感があります。
福だるまを出て左向いに共同トイレがあり、
右の方に行くと寮に帰れたような気がしてます。
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気になるので、まず、「県道6号線」をしらべた。
別名「甲府ー韮崎線」で、
また別名「朝日通り」「山の手通り」というそうだ。
腑に落ちないので、Yahooマップで調べると、
なんと、「新天街」がオギノがある「朝日通り」から
入れることになっている。
このマップには、まだ「福だるま」が載っている。
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まだ、腑に落ちないので、google ビューで確認すると
「朝日通り」に「新天街」の入り口がある。
2019年12月まで、朝日通りから「新天街」に
入れることを知らないでいた。
いつも酔っぱらって、新天街に行き、そのまま
帰ってきたので、「オギノ」のある朝日通りに
出られることを知らないまま、
危うく、2020年を迎えるところであった。
芙蓉寮の水飲み場の位置も思い出せないので
脳が、かなりこわれている。
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11.「応化フラ」
元歌(もとうた)
2019年12月3日
「応化フラ」は「ハワイよいとこ」とか、
タフワフワイ(TA FU WA HU WA i)「ハワイの戦争の歌」,
『Hawaiian War Chant』が
元歌(もとうた)だとわかった。
2019年12月6日
パソコンが歌う「応化フラ」の試作品を作ってみた。
2019年12月9日
「応化フラの雑なフルバージョン」を作りました。
下の「コンパ」の絵をクリックすると流れます。
応化の人は、これを歌うとき、机の上にのぼって、
歌いはじめます。ジュリア―ノ東京の「お立ち台」のようです。
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